野洲川の下流域は、河川がもたらす豊かな水と肥沃な土地のため、古代から多くの人々が住み着き、長い時間をかけて独自な風土と文化を創り出してきた土地です。
日々の暮らしが野洲川と共にあった地元には、昔から語り継がれてきた、この土地ならではのふるさと物語(民話や民謡や伝承など)が数多く残っています。
こうした「ふるさと物語」は、野洲川・下流域に住む人々の「心の記憶」「心の風景」であり、いつまでも残したい地元の宝です。
「野洲川物語・下流域編」では、こうした地元の「ふるさと物語」を紹介し、もっと地元の良さを知っていただきたいと思います。そのことで地元愛が育まれ、地元の宝「ふるさと物語」が未来につながっていってほしいと思います。
昔、湖西に八荒という名の立派な力士がおり、湖東の村で相撲が行なわれた。その村に住むお満という名の娘は、八荒を一目見るなり恋に落ちてしまった。お満はたらいに乗り対岸の湖西へと通うが、九十九日目暴風雨と荒波によって湖に沈んだという悲しい恋の物語。
明治29年の大洪水は、100年に1度の大雨であった。大水口神社と浄宗寺には、大洪水の高さを示す石碑が立っている。この時の大洪水は、滋賀県 全域でたいへん大きな被害をもたらし、南郷洗い堰を建設するきっかけにもなった。
祭神・豊城入彦命が東国を平定するために湖西から丸竿と丸筏で琵琶湖を渡り、着いたこの地を幸津川と命名した。その祭神を鮒鮨を献上してもてなした伝承が今も祭りとして毎年執り行われる。それが国の無形民俗文化財に選択された「すし切りまつり」だ。なお前日と当日には、長刀踊りやかんこの舞いが数回にわたって奉納される。
天文8年(1539)、戸田村(今の立田町)の堤防が切れ、多くの人家が流され、十数年にわたり堤防が切れてしまった。戸田村の庄屋の娘の愛さんを人柱(人身御供)として捧げ、野洲川の洪水を鎮めたたという悲しい物語である。
享保6年(1721)7月、笠原の堤が切れた時、神社の社殿が流れ出し、ご神体が流れそうになった。しかし神輿(みこし)に多くのタニシがき社前で止まった。そのためご神体は 流されずにすんだ。村人たちは、これはタニシのお陰と感謝し、境内にタニシの池を作り保護したそうだ。今ではこの池を「御蜊様池」と呼ぶようになり、神社も「蜊江(つぶえ)神社」と名づけられるようになった。
中洲地区は、野洲川の北流と南流にはさまれ、昔から再三再四水害に見舞われてきた。そのつ ど人々は流された家を直し、砂にうまった田畑を掘りおこし復興のために力を注いできた。そして、何とかして水害から暮らしを守ろうとする思いが、愛の方明神や稲荷神社をまつ ることになったのであろう。そうしたこの地域に暮らす人々と野洲川との関わりについては守山埋蔵文化財センター、野洲川田園空間博物館に写真や地図として残されている。
守山市服部町にある小さな祠の神社で、「竜神社復元記」によると竜神社(りゅうじんじゃ)は水難と水利水防の神として祀られ、江戸時代の古文書には「龍神宮」と記されている。